人は見たいものしか見ない

騒音に我慢できない

まず自分の意見があり、そこから自分の意見に合致する情報を集める。
客観的であることは、聖人かロボットでもない限り、困難だ。
「自分は客観的だ」という人は、おそらく自分のことすらわかってないのだろう。

(ある実験によれば、脳の欠損により感情がなくなった人間は、何の意思決定もできなくなるそうだ)

ゆえに相互理解は難しい。同じ現実を見ている二人でも、その解釈、複数の項目のどれを重視するかはそれぞれ違う。
ある現実は、一方から見れば許されざる議論かもしれないが、もう一方からすればひどく当たり前の議論するまでもない事だったりする、
視点が違えば、同じ現実に対する複数の見方は両立されうる。それはおかしな話でもなんでもない。「真実は一つ」ではない。

本人が見たくない現実(の一側面)を無理やり見せたところで、彼の意見は変わらない。
「お前は間違っている」と言われて、はいそうですかと簡単に意見を変える人などいない。

なので、反論は意味をなさない。意味があるやり方があるとしたら、それは「こんな見方もあるのでは?」といったマイルドな手法だろう。
意見は変わらないだろうが、せめて別の意見を持つものを馬鹿にしたり、異なる意見を禁止したりはしないようにできるかもしれない。

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