デイヴィット・フリードマンの著書にこの一文があるそうだ。
「私は誰もが自分自身の生き方を決める権利 ー 自分自身の仕方で地獄に行く権利 ー を持っていると信じている」
そう、誰もが自分自身の生き方を決める権利がある。
たとえその選択が、彼を地獄へ導くものだとしても。
たとえ周囲の人々からは彼が地獄へ行くのが明らかだったとしても。
人は自分にマイナスなこと(例:喫煙、ギャンブル)でも、他者に迷惑をかけない限りにおいては、それを選ぶ権利がある。
「愚行権」というのだが、どうも「愚か」という単語のイメージが悪いようで、
「人は愚かなことをする権利があるよ」と誰かにいうとき、私は彼の選択の自由を擁護しているのだが、まるで彼が愚かだと言っているように思うみたい(全くそんなつもりはないのだが)であまりよろしくないと、やっと最近わかった(今更ではあるが)。
結局は自分の人生の責任は誰も取ってくれない。
「国が悪い」「企業が悪い」「誰々が悪い」と叫んで責任転嫁したところで、仮に何らかの形で金銭なり名誉なりが補償されたとしても、失われた何かは永遠に取り戻せない。
だから、誰かを盲信して従うのではなく、流行のメソッドをひたすら追うのでもなく、誰かの視線を気にするのでもなく。
自分自身で選択していきたい。それは認知的な負荷を伴うもので非常にきついのだけれど、楽だからって権利を放棄したくはない。
それで地獄に行くかもしれない。できれば地獄には行きたくない。
でも、地獄に行きたくないからって周囲が「こっちが天国だよ」と言ってる方向に一緒に歩くのがベターとも思えない。
地獄は実は複数あって、皆が天国だよと言ってるその先には、巧妙に偽装された地獄があるだけかもしれないしね。