阿含経典を読んでいる。仏教の初期、ゴータマ・ブッダの生の声が記録されている経典。全三巻で、1500ページはゆうに超える。
同じような内容の繰り返しが眠気を誘うが、こうやって少しずつ手を替え品を替え、皆に教えを伝えて行ったのだなというのがよくわかる。
彼は悟りを開いた直後、それを他者に教えようとは考えていなかった。阿含経典1(増谷文雄 編訳)にはこうある。
わたしが証(さと)りえたこの法は、はなはだ微妙であって、智者にしてはじめて理解できるような内容である。
しかるに、この世間の人々は、ただ欲望をたのしみ、欲望にふけり、欲望に夢中になっていて、
とてもこの法を理解できようとは思えない。もし今わたしがこの法を説いても、彼らがこれを理解しなかったならば、
わたしはただ疲労と困憊をもって迎えられるばかりであろう。
この後に梵天(ブラフマー)という神様に説得されて布教を始める・・という流れだ。
神様がいないと仮定すると、まあこのくだりは脚色だと思われる。
しかし、ブッダが一旦躊躇したのち、半ば嫌々ながら布教を始めたことは事実だろう。
実際に布教を始めてみると、彼の思想は世界中に広まった。
21世紀に生きる私たちがまだその思想を参照するほどに。
経典では、執着を捨てよと繰り返し説かれる。
21世紀の日本で、経営者という立場でどこまで執着を捨てることができるのか。
完全に捨てれば、会社は潰れてしまうだろう。中庸な落とし所をいつも探している。