正当化のためなら

人は「自分は正しいことをやってきた、今もそうしているし、今後もそうするだろう」そう思いたい。
誰だって自分が間違っていることを認めたくはない。自分が愚かだと思いたくはない。

なので、自分を正当化する。側から見れば明らかに破綻している論理でも、それを信じる(もしくは、信じているふりをする)
説得は効果がない。本人もうっすらとはわかっているのだから。
ただ、間違いを認めてしまいたくないから、自分を肯定してくれる理由を探し、それにこだわる。

理由なんて、ちょっと探せば肯定・否定どちらでも見つかるものだ。
もし「たった一つの真実」のようなものがあり、皆がそれに同意するのであれば、戦争は起きないし、裁判所も不要だ。

それらしい理由がなくなってしまったら?きっと彼はこう言うだろう。
「当時は(情報が少なく)仕方がなかった」
「私も騙されていた」

自分を正当化するためなら、人は大事な人にだって嘘をつく。自分にさえも嘘をつく。

相手の過失を追求することに意味はない。
必死の正当化に付き合ったとしても、何も得るものはない。
同じ間違いを繰り返さないためにどうしたらいいのかを考えることに時間を割きたい。

(何のこととは言わないが)これから始まるであろう責任追求、スケープゴートとして処刑台に立たされる人、
「我々は騙されたのだ」と善人ヅラする人たち、そこに費やされる生産性のない時間。

考えると憂鬱になるけれど、それは仕方がないと割り切り、自分のことを粛々とやっていくことにしよう。

関連記事

  1. 「認められたい」承認欲求のメリットとデメリット(1)

  2. 給料日が怖い

  3. 人生はずっとベータ版

  4. 自由と平等のユートピア

  5. 仕事か遊びかは周りが決めてくれる

  6. 全ては主観であり、失うのは現在のみである

最近の記事

  1. 2022.06.14

    山笠

読書記録(ブクログ)