資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい。
──マーク・フィッシャー
資本主義は終わらない、全てを取り込んで成長していく。反論すらも。
上記の言葉を発したマーク・フィッシャーはうつ病に悩まされ、48歳で自ら命を経った。
彼の書いた「資本主義リアリズム」という本がある。その「絶望感」がなんとなく自分に合うのだろう。
折に触れ読み返しているが、本棚のどこに置いたか忘れて繰り返し購入しているうちに、いつの間にか本棚には3冊の同じ本が並ぶことになった。
(私の人生にもっとも影響を与えたバンド「Radiohead」のアルバムジャケット(Hail to the thief)とこの本の表紙が似ているというのも、気に入っている理由の一つかもしれない)
マーク・フィッシャーによれば、資本主義リアリズムとの定義とはこうだ:
資本主義が唯一の存続可能な政治・経済制度であるのみならず、
今やそれに対する論理一貫した代用物を想像することが不可能だ、
という意識がまん延した状態
20世紀までは、資本主義に対する「反論」があった。社会主義、共産主義、はたまた脱成長・・・
今ではそれらは反論になり得ていない。思想としては残っているが、全ては資本主義に取り込まれてしまっている。
社会主義を実現するために国が補助をすべきだとなれば、その原資(税金)は資本主義によって得られる。
共産主義だのマルクスだの脱成長などと謳う若手の学者は、資本主義が作り出したメディアに出演して金を稼ぐ。
全ては資本主義の名のもとに商品化され、値札が付けられる。人生も、体験も、性愛すらも。
おそらく、資本主義リアリズムと呼ばれるこの一連の流れを変えるのは難しい。
大災害や大戦争が起きて一時的に緩むことはあるけれど、すぐに元に戻るだろう。
なぜって、他の手段ではある程度の規模の社会をうまく回すことができないからだ。
少なくとも人類はまだその手法を思いついていない。
社会の成員全員で貧しい暮らしを享受しても良いというのなら話は別だが。
抜け駆けする奴が出てくることは共産主義の壮大な実験で明らかになっているので、やはりそれでも持続不能だ。
資本主義のオルタナティブが存在しないとすれば、「ここではない社会」を待ち望んだところで意味がない。
この環境が多少いびつだとしても、絶望してしまうのではなく、醒めた目で周囲を見渡し、ここでうまく生きていくしかない。
資本主義という大きなルールは変わらずとも、業界や地域の「サブルール」は変更されることもあるだろう。そこにチャンスがある。
変化に怯えず、柔軟に対応すること、何かを断定し、固執しないこと。
ステージで鳴っている音楽を素早く聞き取って、それに合ったダンスを踊ること。