「まだ議論が尽くされていない」
という発言が、とても気になってしまいます。
議論が尽くされるとはどんな状態か
議論が尽くされていないと主張するからには、「議論が尽くされた状態」というものを定義しないといけません。
その場に参加している全員が全ての意見を出し、意思決定に必要な情報も十分に揃い、それに対して全員が納得いく議論ができ、これ以上話すことはない、と全員が同意したうえである結論が導き出されれば、議論が尽くされたといえるでしょうか。
限定された情報、時間
経営コンサルタント(中小企業診断士)として公的なものの民間企業や団体のものの、いろいろな会議に参加してきましたが、議論が尽くされた状態なぞついぞ見たことがありません。
そもそも、なんらかの意思決定をする際に完全な情報が揃うことなどありません。(サイモンの限定合理性)
不確実だったり、抜けていたりする情報をもとに議論せざるを得ないわけです。
時間が立てば新しい情報も出てくるし、状況自体が勝手に変化することもあります。
よって議論を尽くすことは不可能で、限られた時間と情報のなかで、最善な意思決定をするしかない。
議論しているメンバーの力関係によっては、まともな議論ができないことすらあります。
それでも、その条件のなかでなんとか決める。その覚悟がなければ、ずっと議論ばっかりしているいわゆる「小田原評定」になってしまいます。
そんな企業や団体が何か有益なことができるとはとても思えない。
議論を尽くすことは目標ではない
議論が尽くされていない、というのは、当たり前なんです。
議論を尽くすことを目標にしてはいけない。
ほとんどの人は、情報や時間、参加しているメンバーの力関係といった、議論の限界をわかった上で、それでも、少しでも良い意思決定をするために議論をしていると思います。
「良い」というのは人によって異なります。議論の出席者Aによっては良いことが、出席者Bにとって許容しがたいことかもしれない。
「議論が尽くされていない」と主張する人は、「現時点では、自分が得する結論じゃない」と言っているのかもしれませんね。
そう言い換えてしまうと、まるで子どもが駄々をこねているようです。