自分以外の他者と「認識がそろう」ことはめったにない。
揃ったと思ったのなら、それは大雑把な理解なのか、勘違いしてるかのどちらかだ。
個人の内部でも揃っているかどうか
自分自身のなかにも複数の立場だったり人格があるだろう。
会社では部下に厳しいが、家庭では良い父親である人。
平和を守るためには暴力も辞さない活動家。
個人単位ですら、「認識」が揃っているかどうすら、疑わしい。
#分人主義という考え方がある、詳しくは類書をあたって欲しいが、
#「本当の自分」という概念を取っ払えばいろいろ苦労しなくても済むようになる。
認識は必ずズレる、という前提で考える
どうやら、認識は揃わない、必ずズレる、という前提で活動した方が良さそうだ。
認識が揃わないとしたら、重要になるのは調整だ。
不明点があればその都度説明を求める、こちらの意見を整理して伝える。
全てを説明はできないので、優先順位を明確にし不要な部分は大胆に省略する。
前提条件の確認、過去に発生した事象の解釈、現状認識、将来起こりうるシナリオの想定・・・
それらを言葉にして、または文章なり図表で紙に落としてこそ、
認識のズレを最小限にすることができる。
また、一度認識が揃ったとしても、時間が立てば徐々にズレていく。
弛まぬ再調整が必要になる。
それは面倒な作業で、かつてのような「あうんの呼吸」が通じた気楽な時代を懐かしむかもしれない。
でも、そんな時代に戻ることはもうないと考えた方がよい。
それだけ社会は複雑になり、個々人が多様化したのだろう。
#そもそもかつて、あうんの呼吸とやらが通じていたのかどうかも怪しい。
#下位の者が自分を殺し、必死に忖度していただけなのではないだろうか。
上司や同僚、部下が自分の認識と違っていたら、
自分の表現不足、調整不足を責めるべきであり、
彼らに腹を立てるのは筋違いだろう。