「頻度」と「程度」の過剰な一般化

意思決定のためには「頻度」と「程度」が必要だ。
100%はわからないにしても、目安がなければ判断できない。

例えば、ある病気のことを考える。
症状の重さには個人差があるが、最悪の場合は死に至ることもある病気だ。

誰だって死にたくはない。だからこの病気にかかりたくはない。
空気感染するようだ、無症状の人からも感染するらしい。
だったら、一歩も部屋から出ず、人に会わない、そんな生活を死ぬまで続けよう。

そう思うか?そんなことはないだろう。
この話には「頻度」と「程度」が欠けている。

頻度や程度、つまりその病気にかかる確率はどれくらいか、
そして、重症化する確率、死に至る確率はどれくらいか。
性別や年代により頻度は変わってくるのか。
ほとんどの人はどの程度の症状で治るのか、
それはどのくらいの期間継続するのか。

そしてそれは、既存の病気や他の危険(交通事故や冬の風呂場でのヒートショック、転倒など)と比較してどのくらいのリスクなのか。

それらがわかって初めて、自分の行動を決定することができる。
までデータが集まらないとしたら、意思決定を「保留」すればよい。
そしてデータが集まり次第、行動を変更する。

ーー

自分の体験を過剰に一般化してしまう人がいる。
「自分(もしくは知人や家族)はこの病気にかかって大変きつかった、死の淵を彷徨った。なのでかかるべきではない!」と大声で叫ぶ。
しかし、その人が重症になったからといって、他の人も罹患すれば同様の症状になるとは限らない。
全体の統計を見れば、むしろ軽症で済む人の方が多いことがわかるかもしれない。

人は個人の体験を重視しすぎるあまり、頻度や程度を無視するというか、見ないようにする傾向がある。
でもそのことを話すと、「冷たい」とか「人の心がない」「上から目線」だと批判されてしまう。

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