変えられるもの、変えられないもの

以前ブログにも書いたが、「ニーバーの祈り」と言われる一文がある。

「神よ。私に、変えられないものを受け入れる冷静さと、変えるべきものを変える勇気と、それらを見分ける知恵を与えたまえ」

彼は神学者であったので神に祈っているが、無神論者である私は神ではなく自分で自分にその「冷静さ」「勇気」「知恵」を与えなければいけない。

先日、とある会合でこの話題が出た。
うろ覚えではあるが、「政治に関しては私が変えられるものではないので受け入れる。状況の変化に対応するだけだ」とでも、私がシニカルに話したのだろう。
政治家の知人がいる方が「そんなことはない、政治だってきちんと取り組めば変えることができる」と主張し、実際に彼が関わっている政治家と活動の成功例を話してくれた。
また他の方は、「選挙に行くべきだ、選挙で政治を変えることができる」とも。

どちらの言っていることも正しい。
ある物事が「変えられるかどうか」は、それを行う個人の属性にも依存するだろうから、正しさは人の数だけある。

政治家の友人がいたり、政治活動を行うことが好きであれば、政治を変えることができるかもしれない。
ただそれを好まない人、苦手な人も居る。不得意なことを無理にやって成果が出るとも思えない。
そして私は後者なのだと思う。気が利かないし、配慮や根回しもうまくやれない。

選挙には行くべきだとは思う、実際に私も毎回きちんと投票するようにしている。
ただ、私の一票が政治家の当落を左右するようなシチュエーションには一回も遭遇したことがない。
私が投票に行かなかったとしても、対立候補に投票したとしても、結果は全く変わらなかったろう。
他者を説得して、当落を左右するほどの人数を選挙に参加させるほどの熱量があれば、その人にとっては「変えられること」なのだろう。

私はそれを変えることができない、というだけであって、その範囲を他者に強制するつもりはない。

人の気持ちや性格は変えられない。それができるとすれば、強要や洗脳の類いだ。
政治などの大きなシステムを変えることも難しいだろう。自分が政治家になれば良い、という人もいるが、政治家だって独裁者ではないのだから、自分の一存で全てを決めることはできないだろうし。

あまりこじんまりと「自分にはこれしか変えられない」としてしまえば、つまらない人生になってしまう。
かと言ってあまりに大きな範囲で「自分には無限の可能性がある」とやれば、誇大妄想狂の類いだ。

自分の現在の分を弁えて、少しずつ、自分ができそうな範囲の「変えられること」を拡張していく。
人生とは、幸せとはつまり「自分のコントロールできる範囲を拡大していくこと」だと思っている。
それには愛やら勇気が必要だろう、そして、悲しいかな、ちょっとのお金も。

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