確証バイアスには二つある(量的・質的)

ディスコミュニケーション

確証バイアスという「思考の歪み」がある。
自分の都合の良い情報ばかり集め「ほらみろ、みんな私と同じように主張しているじゃないか」という誤った判断をしてしまうことを想像してもらうといい。

朝日新聞しか購読していない人と、産経新聞しか購読していない人。
テレビばかりみている人と、ネットばかりみている人。
同じ世界に生きているはずなのに、認識は大きく違うだろう。下手をすると全く逆かもしれない。

会社だって確証バイアスから逃れられない。耳あたりの良い、自社にとって有利な情報ばかり集めて、不利なものは聞かなかったことにするなんてよくある話だ。
人間は無意識にこの確証バイアスを使ってしまうのが厄介だ。意識しなければこの罠から抜け出ることはできない。

まあ、抜け出ない方が幸せではあるのだけれど。

二つの確証バイアス

確証バイアスには二つの種類がある。量的なそれと、質的なそれ。

量的な確証バイアス

「量的」というのは、自分の考えを裏付ける情報の量のことだ。
ネットで検索してたまたま引っかかった情報を読んで、自分の意見を補強するだけであれば、量が圧倒的に足りない。
論文も検索するとか、新聞社が経営しているサイトからも検索するとか、可能であれば図書館や本屋にも行く。
十分な量を確保しなければ、正しい判断はできない。
何を持って十分とするかはその内容によるだろうが、少なくともネットだけ、あるブログだけというのは情報源に頼るのはやめた方がいいだろう。

質的な確証バイアス

「質的」というのは、取得したデータの品質や解釈についてだ。
検索で出たきたページは、本当に正しい情報を伝えているだろうか?
そもそも、検索キーワードの選定自体が自分に有利な情報しか検索結果に出てこないようなものだった可能性もある。
ネットの情報もどこまで正しいかはわからない。その記事の横に広告は載っていなかったか?広告収入のために情報を誇張したり歪めていないと言い切れるか?

これは新聞だって書籍だって同じだ。何か目的を持って書かれているのかもしれないし、自分の意見に不利な情報は「あえて書いていない」可能性があるのはネットと一緒だ。
いくら量を集めても、ゴミばかりだとしたら、その集まりはやはりゴミでしかない。

解釈も人により変わる

「量」と「質」に配慮して情報を揃えても、その解釈は人によって異なる。
先日ある知人、左翼的な傾向がある方と話した。彼に言わせれば「マスコミは政府に支配されていて、彼らに都合の良い情報しか流さない」とのことで、私に不満をぶつけていた。
数日後、別の知人と話す機会があった。この方はどちらかといえば保守的な、右翼的な傾向のあるかたで、「マスコミは政府を攻撃することばかり考えていて、報道が歪んでいる」と、やはり憤っていた。
彼らは二人とも、同じ事件の報道をみていて、それでいて全く真逆の解釈を引き出していた。そんなものだ。

確証バイアスからは逃れられない

人は確証バイアスからは逃れられない。もし確証バイアスの全くない人間がいたとしたら、彼はおそらく何も決めることができないだろう。

だからこそ、自分が確証バイアスを使って世の中を眺めていることに意識的になり、立ち止まって敢えて反対意見や少し異なる意見も収集してみることが大事なのだろう。
その上で結論が変わらない、というのであれば、それは確証バイアスに影響されていない「本当の自分の意見」なのかもしれない。

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