自分でないかのように

自然の意思は、私たちおたがいが、
意見を異していない事柄から学ばれる。

例えば、よその小僧がコップをこわした時、
私たちは「それはよくあることだ」と即座に言える。
それでだ、いいかね、きみのコップが壊れた時も、
他人のが壊れた時と同じように対処せねばならないのだ。

もっとだいじなことにも、そのように当てはめるがよい。
よその妻子が死んだ、「人間の運命だ」と言わないものは誰もいない。
しかし、自分の妻子が死んだ時には、すぐさま「ああ、不幸な私」と言うのだ。
だが、他の人々に関してそのようなことを聞いた時は、
私たちはどんな気持ちを抱くか、思い出さねばならない。

エピクテトス「要録」26

昔から、自分のことなのにまるで他人事のように話す、と指摘されてきた。
それはある人から見れば、自分を大事にしていないように見える。
機械のようで気味が悪いと言われたこともある。
またある人からは、真剣に取り組んでないように見えると、しばしば怒られてきた。

心情としては古代ギリシャ・ローマのストア派、エピクテトスの上記の引用に近い。
自分を客観化してこそ見える風景があると思うのだが、あまり他者から理解はされない。
そして、そう考えたとしても、それでもどうしても残る「主観」のようなものが気になる。
それはきっと個性と呼ばれるものなのだろうと。

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