了見の狭い神様

以前、知人と歩いていてたまたま神社の前を通りかかったことがある。なんとはなしに「参拝してみようか」ということになり、鳥居をくぐると、知人はその前で一礼をした。私は何もせずにそのままくぐると、知人から「無作法だなあ」と言われた。確かにそうしている人は多い。

はて?自分が子供の頃って、そんなこと誰にも言われた記憶がないが?と、調べてみたところ、どうも1990年代も後半くらいに作られた「作法」のようだ。

神社の参拝に正式な作法はない反社会学講座ブログ
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ずっと不思議だった。鳥居をくぐるたびに一礼しなければならないとしたら、鳥居が無限と言っていいレベルで並んでいる京都の伏見稲荷神社では、人はまるで鳩のような動きをしながら歩かなければ「無作法」となってしまう。伏見稲荷神社に言ったことがあるが、そんな歩き方をしている人は見なかった。最初の鳥居だけが礼をしなければならない「特別な鳥居」なのか?それもおかしな話だ。
また、参道の真ん中を歩くのが「無作法」、なぜならそこは神様の通り道だから、ともよく聞くが、初詣の人混みがモーゼのように中心から割れているのをついぞ見たことはない。大晦日から元旦にかけて、神様は道を通れなくて怒っているのではないだろうか。お賽銭はたくさん入っていて嬉しいのかもしれないが。

結局は資本主義が悪いのだ。「マナー」を教えることでお金を儲けるみなさんが、不要なルールを増やしているように思う。何せ、ルールが増えて、複雑になるほど、彼らは儲かるのだから。

というわけで、私は鳥居をくぐる際にいちいち頭を下げないし、参道の真ん中を歩いても特に気にしない。そんなことを気にするような了見の狭い神様なんていないと私は信じている。

なお、ちゃんとお賽銭は入れている。

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