普段、ラッシュ時の電車に乗ることはない。
始発で出勤しているし、退勤も遅い。
電車やバスでなく自転車や徒歩の移動が多いこともある。
仕事の都合で、ラッシュ時の福岡市営地下鉄に乗ってみると、普通に混み合っている。
春とは違う印象だ。
また別の日、普段しないパチンコを戯れにやってみる気になった。
店に入って千円だけ打ってみた(もちろん負けた。私はギャンブルは苦手で、すぐにビビってやめてしまう)。
ここも人が多い。いつもと変わらない人出に見える。
これを「弛んでいる」と批判する向きもあるかもしれない。
でも、自粛を1年以上続けることなんて、並の人間にできるわけないじゃないか。
人々の善意や相互監視に頼ったシステムは容易に崩壊する。なので、こうなるに決まっている。
ただ私は、この人出を「皆、何が不要不急かのバランスがわかるようになってきた」のだとむしろ前向きに捉えている。
不要不急とは
そもそも「不要不急」とはなんだろう?
私にとって、事務所に行き効率の良い環境で仕事をすることは、決して不要不急ではない。
中小企業なんて一つの判断ミスで簡単に倒産してしまう。
そうならないためには常に全力を出して市場と向き合い、システムを整備し、クライアントにサービスを提供しなければならない。
ある程度のリスクは甘受せざるを得ない。金銭的なリスク、紛争のリスク、交通事故のリスク、病気・怪我のリスク。エトセトラ。
テレワークができる環境は整備しているけれど、あくまで出勤が難しい場合の代替手段でしかなく、効率は落ちると思っている。
効率の悪い働き方を続けていて競争に勝てるほど、中小企業の事業環境は甘くはない。
繰り返すが、不要不急とはなんだろう。
ある人にとっては旅行に出かけることが一種の「魂の救済」になっているだろうし、
年老いた両親に「いつでも会えるから」と自粛してたら、悲しいかな、もう会えなくなってしまうことだってありうる。
テレワークを選択しているうちに、リスクを厭わず出勤している同僚に出世レースで差をつけられたら?ライバル企業に出し抜かれたら?
定義づけできないのでは
何が「不要不急」かに、誰もが納得できる定義づけなんてできないと思う。
ある人にとっては不要不急の行為でも、それが別の誰かの人生にとって大きな意味を持つことでないと、どうして言い切れる?
そしてその「絶対的な不要不急レベル」を、誰が決められるというのか。
結局のところ、決めるのは自分しかいない。
結構な割合の人は、自分の仕事を、生活を、人生を、「不要不急」だなんて、そんな風には思えないのではないだろうか。
誰も結果の責任は取らない
世間から後ろ指刺されるのは本意ではない。けれど、
このまま世間の流れに従い自粛していたら、その間に取り返しのつかない何かを失ってしまいそうだ。
全てが終わったあと、自粛を声高く主張した人々は、私が失ってしまった何かについて責任をとってくれることも、謝罪してくれることも、きっとないだろう。