長期的には、我々は皆死んでしまう

別れ、さようなら、霊体、天国

いつもは、考え方だったり情報だったりガジェットの紹介だったり、何がしか誰かの助けになるような情報を出そうとしている(できているかどうかはともかく)。しかし、今回は単なる個人的な思い出話。SNSとの連動もこの投稿に限ってオフにしている。
忘れる前にメモする。昔の友達がこの記録を見て、彼のことを思い出してくれればと思う。


中学・高校時代の友人が死んだ。病死だったそうだ。死んでから2ヶ月後にそのことを知った。

彼とは中学時代に知り合った。
私のオタク趣味の師匠であり、情報が不足している田舎(離島)での数少ない同志の一人だった。
MSXというパソコンでゲームを開発しようとした(結局完成しなかったが)。
テーブルトークRPG(想像上の世界を作り、会話とサイコロで冒険を楽しむゲーム)を一緒に楽しんだ。

交通手段がなかったので、自転車で山をいくつも越えてお互いの家を行き来していた。
休みの日は彼や友人たちと連れ立って島中を自転車で走り回った。

高校卒業後、一緒に福岡へ出てきた。大学生活にうまく溶け込めない私を助けてくれた。
パチンコ屋で知り合った見ず知らずの他人を家に泊めて、翌日彼を置いて学校に行き帰ってきたら家財道具一式盗まれているような、人を信じる、信じすぎる奴だった。
自分が大学生活に慣れるにつれ、だんだんと疎遠になっていった。

社会人になってからはまったくといっていいほど交流がなかった。風の便りに、横浜に住んでおり、結婚して子供ができたと聞いた。
3年ほど前、東京出張の際に久しぶりに声を掛け、一緒に食事をした。話す内容は昔とたいして変わらない、他愛のないものだった。
ちょうどその日は彼が会社を辞めた日で、翌日から就職活動を始めると言っていた。

In the long run we are all dead.
長期的には我々は皆死んでしまう
ー ケインズ

ケインズがこう言ったのは、長期的な予測を揶揄してのことだった。
なので、今回この言葉を引用するのは適切でないかもしれない。
でも、彼が死んだと聞き、事務所の屋上で仕事もせずにボーッとしてたら、この言葉が頭に浮かんだ。

人は皆いつか死ぬ。それはそうだ。
3年前に東京であったきり、交流といえばフェイスブックのメッセージでちょっとやりとりするくらいだった。
病気になったことも知らなかった。親友と呼べるほどの交流があったわけではない。
彼が死んだから、自分のいまの生活が大きく変わるというわけではない。

でも、もう二度と会えないと思うと、とても寂しい。

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