「別のコースを歩んだ自分」のカリカチュア

以前、SNSを徘徊していたころ、時々自分に似たプロフィールの同業者を見つけることがあった。

IT出身だったり、年齢が近かったり、地方在住だったり、人生の一時期に大きな挫折を経験していたり、考え方が似通っていたり。
まるで「パラレルワールドの自分」を見ているようだ。
そこには「もしかしたらこうなっていたかもしれない自分」の姿がある。
ああ、自分も選択次第ではこんな人生を送ったのかもな、と想像してしまう。

あるパラレルワールドの自分は、楽しそうに日々を送っている。
友人も多く、家庭円満、仕事も順調で、社会的にも評価されている。
羨ましいな、と思う。

また、別のパラレルワールドの自分は、どうやら本人が思うようにはうまくいっていないようだ。
肩書きがコロコロ替わり、「やる」といったことはいつの間にか有耶無耶になり、実現しない。
積み重ねつつあるものを自分で壊す。そして、空理空論を唱え、社会とか世の中とか主語の大きな話をポエムのように語る。
気がつけば、うまく行かない人生と、自分を認めてくれない社会に対して呪詛をぶつける。
もったいないな、と思う。

それぞれの人生は、私の人生にちょっとだけ似ていて、ちょっとだけ違う。

もちろんこれはあくまでSNS上で選択的に公開している情報からの類推であり、本当のところはどうかはわからない。
だからこそ、SNSではその個人の人生における目立つ箇所が強調される。
それはまるでカリカチュア(戯画)のように、私の目立つところ、嫌なところを拡大して見せつけられているような、そんな気分になる。

ーー

藤子F不二雄の短編漫画で「パラレル同窓会」というのがある。
パラレルワールドで生活する「私」が一堂に会して、同窓会を行うといった筋だ。

勤め先で出世して社長になった私、
窓際社員としてうらぶれている私、
結婚相手を間違って苦労している私、
革命の戦士(これは時代を感じる)となった私、
ホームレスになった私、
売れない作家をしている私、
犯罪を起こし収監された私。

些細な出来事がきっかけで、人生が分岐したたくさんの「私」。

ーー

最初は好奇心から色々な「私」を見ていたのだが、段々嫌になってきた。
自分のカリカチュアを見続ければ、誰だってそうなるだろう。

今は他の事情もありSNSをほとんど見ていない。
なので私が勝手に認定した「パラレルワールドの自分」がその後どんな人生を送っているのかはもうわからない。

前述の漫画では、同窓会で意気投合した二人の「私」が人生を取り替えることになる。
現実社会ではそんなことはできないのだから、気にせずに自分の人生をまっとうするしかない。

関連記事

  1. 使いなさい、さもなくば失うよ

  2. いつまでたっても先生に見えない

  3. 自分で褒めないと

  4. 解決策が美しくないとしたら

  5. 多忙なビジネスマン

    それを仕事と呼ぶのは単なる慣例に過ぎない

  6. 幸福か否か

最近の記事

  1. 2024.04.15

    メンテナンス

読書記録(ブクログ)