科学VS風評

石原慎太郎が生前に豊洲問題で矢面に立たされたとき、
「科学が風評に負けるのは国辱だ」と言った。

その後豊洲はどうなったか?誰も汚染水のことなど気にしていない。
石原の言ったことは正しかった。科学は風評に負けてしまったが、誰もそのことについて反省しなかった。
あれは科学ではなかった。風評と、さらに言えば政治闘争だった。

あのときは、それが2022年からさらに大規模になって全世界レベルで行われるとは思っていなかった。
しかも我が国では3年も続き、さらにまだ完全には終わってないという事態も全くの想定外だ。
(当初私は、長くても1年でこの騒動は収まると思っていた。全くの見込み違いだった)

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では「科学」を盲目的に信頼すればいいのか?それも違うように思う。

主張する人は皆「自分の意見には科学的な根拠がある。なぜならこの論文が・・」とか「この偉い大学や研究所の発表が」とくる。
反対する人も同様に科学的な根拠があると叫ぶ。

どちらの陣営にも科学的な根拠があり、どちらの陣営も嘘をついていないのだとしたら、
「科学的な根拠」というやつは何かを判定する役に立たないのではないかとすら思う。

実は元々自分の意見なり思想が確固としてあって、それを補強する「科学的な根拠」をつまみ食い(チェリーピッキング)しているだけなのかもしれない。

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科学で結論がほぼ出ているものと、現時点では「仮説」でしかないものがある。
後者は根拠としては弱すぎるのに、前者と(意図的かそうと知らずかはともかく)ごちゃ混ぜにして使われているようにも思う。

実験結果は前提条件の置き方によって変わる。同じデータでも解釈によって結論は変わる。
スーパーコンピューターは高度な演算を正確にこなすかもしれないが、実験のデザインをするのは人間だ。その人間に「思想的な偏り」がないとどうして言える?

それでも「なんとなく嫌だ」とか「あいつらだけずるい」と言っただけの「風評」頼みで何かを判断するよりはなんぼかマシなのだろうが。

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この3年で、「科学的」という言葉に何の意味もないことがよくわかった。
どうやら「それぞれの科学」があるらしい。科学というのは、子供だった頃の私が憧れたほどには、客観的なものではないようだ。

最近は論文がどうとかの「科学的な根拠」ではなく、
取得時の前提条件が明確な生データとそこから論理的に自分で導く結論だけを信じるようにしている。
それで他人を説得しようとも思わない。世界を変えようとも思わない。
ただ、自分の行動の指針にするだけだ。愚かな行為をなるべくしなくて済むように。未来の誰かに笑われないように。

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