経営学者の伊丹敬之が著書で「性弱説」を紹介していた。
性善説と性悪説は皆知っているだろう。
人間が生まれつき善人なのか悪人なのか、という考え方の違いで、
中国の思想家、孟子は性善説を、荀子は性悪説を唱えた。
性善説の場合は、人は善なのだから、その善性をただ延ばしてやればよい。
性悪説の場合は、人は悪なのだから、それを教育で正しい道に導く必要がある。
私個人は基本的に「性善説」の立場を取っていた。
ときおりびっくりするくらいの悪人はいる(悪の定義はいろいろあるだろうが)けれど、
私の周囲に存在する人々のほとんどは「良い人」ばかりだったと思う。
人は善なれど、弱し
性弱説、というのは聞き慣れないかもしれない。
前述の伊丹氏によれば、「人は善なれど、弱い」という考え方だ。
基本は性善説と同じだ。まずは人を「善い」と信じることから始まる。
しかし、人間とはいくら良い人でも、弱いものであり、
「つい、魔が差して」悪いこと、卑怯なことをしてしまうことがある。
性弱説とは、「人間は弱い」ということを認めた上で他者と交流すべきだという意味だと私は捉えている。
魔が差さない仕組みを
会社経営をしていると、この性弱説という考え方が非常にしっくりくる。
伊丹氏は経営の本質とは「大勢の他人に自分が望ましいと思う何ごとかをしてもらうこと」だと言っている。
(経営を見る眼/東洋経済新報社 101p)
従業員にせよ、取引先にせよ、人間を信じて、任せなければ、経営はできない。
そして、彼らは皆人間であり、本質的に「弱い」ということも考慮したうえでシステムを設計する。
弱い人間がつい「魔が差して」しまわないような仕組みを作る。
たとえば会社の金を使い込むことができないような仕組みを。
仕事をさぼりにくいような仕組みを。
良い(会社にとって、ということ)行動が自然に増えるような仕組みを。
弱った時に支援の手を差し伸べられる仕組みを。
もちろん、経営者自身だって弱い。経営理念や就業規則、外部のコンサルタントは、
「弱い最高権力者」を制御するためにあるのだろう。