比喩や謙遜が使えない社会に

言葉に力がある

発言の一部を切り取られて揚げ足を取られる。
学校や職場や団体に苦情が殺到し、職を追われる。

これはもはや日常の風景になってしまった。
「切り取りではなく全部を見て、文脈を把握してくれ」という至極真っ当な正論は通じない。
謝罪したとしても「心からそう言っていない」と言われる。批判者には心の中を除く能力があるようだ。

飽きられれば、次のネタが出てくれば、とりあえず批判は収まる。
しかし永久に許してはもらえない。何かあるたびに当時の事件が引き合いに出され、批判され、嘲笑される。

この社会の良し悪しの判断は別として、このような状態では、
「比喩」や「謙遜」を用いるのは極めてリスクが高い。

「もしAが真なら、(過激な)Bも認めないといけないのでは」と主張の矛盾を説明しようとすれば、
「Bのような過激な主張を認めるというのか!反社会的だ!」と批判される。

「私はこの分野にはさほど詳しくないのだが・・」と、本当は詳しいのにも関わらず謙遜してそういえば、
「詳しくないならしゃしゃり出てくるな!」と批判される。

結果として、平板な、わかりやすい文章だらけの社会になる。
二重否定なんかもいずれなくなるのかもしれない。わかりにくいから。
古典もいずれ読まれなくなるだろう、誰も複雑な文章の意味を理解できなくなるからだ。

個人的には、あまり楽しくない社会がやってくるように思えるのだが、
どうもこの流れは変わりそうになく、悲しくなってくる。

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