思惑を責めよう

後期ストア派の哲学者エピクテトスは、その著書(弟子が書いたのだが)にこう書いている。

人々を不安にするものは、事柄ではなくて、事柄についての思惑だ。
(中略)
だから、私たちが妨げられたり、不安にさせられたり、悲しまさせられたりするときは、決して他人をではなく、自分たち、つまり、自分たち自身の思惑を責めようではないか。

要録 5

そうなのだ。相手の発言や振る舞いを変えることはできないし、話しても分かり合えないし、説得なんて不可能だ。でも、自分の解釈を変えることはできる。冗談を本気に解釈したり、逆に本気を冗談だと解釈したり。ひどいことを言われても、それを激励だと捉えることだって可能だ(運動部の上下関係でよくみられる風景)。

同じようなことは「7つの習慣」にも書いてあるし、古くは仏教の「アーガマ」にも類似の記載がある。だから普遍の法則だととるか、いつまでも人間が克服できない思考の癖だからこそ繰り返し警鐘を鳴らされるととるのかはわからないが。

ともあれ、他者の(赤の他人でも、親しい・近しい人だって、結局のところは他者だ)発言や行動に、その真意もわからないまま勝手に解釈し、それにいつまでも悩まされて人生の貴重な時間を費消するほど馬鹿らしいこともないだろう。

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