村上春樹の「一人称単数」という短編を読んだ。
普段着ないスーツを着て行かないバーで読書していたら、
隣の女性から呪詛の言葉を投げつけられたというような話。
女性に面識はないように思うが、彼女はこちらを知っている。
勘違いだろうか?誰の?
その前に、主人公(村上)がスーツを着て鏡に写る自分を見て、
過去の選択肢を思い浮かべているシーンがある。
カウンターの向かいの壁には、様々な酒瓶を並べた棚があった。
その背後の壁は大きな鏡になっており、そこに私の姿が映っていた。
それをじっと見ていると、当然のことではあるが、鏡の中の私もこちらの私をじっと見返していた。
そのとき私はふとこのような感覚に襲われた ー 私はどこかで人生の回路を取り違えてしまったのかもしれない。
そしてスーツとネクタイを結んだ自分の姿を見つめているうちに、その感覚はますます強いものになっていった。
見れば見るほどそれは私自身ではなく、見覚えのないよその誰かのように思えてきた。
しかしそこに映っているのはーもしそれが私自身でないとすればーいったい誰なのだろう?私のこれまでの人生にはーたいていの人の人生がおそらくそうであるようにーいくつかの大事な分岐点があった。
右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりした
(一方を選ぶ明白な理由が存在したときもあるが、そんなものは見当たらなかったことの方がむしろ多かった
かもしれない。そしてまた常に私自身がその選択を行ってきたわけでもない。向こうが私を選択することだって何度かあった)。
そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。
もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。
でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?
人生は偶然の積み重ねであって、今ここにいる「私」は、その偶然の結果、ここでこうしている。
違ったルートはたくさんあった。私の場合ならば、サラリーマンを続けることもできたし、
中小企業診断士の資格を取れなかったかもしれない(合格ラインギリギリだった)。
会社組織をつくらず、気楽な個人事業主として生きるというルートもあった。
妻も、友人も、社員も、取引先も、偶然が私に会わせてくれた人たちだ。
いくつかの大事な分岐点で、それなりにいい選択をしてきたと思っている。
時折「他の選択肢を選んだ場合のシミュレーション」をしてみるが、
大体において今の人生の方がいいなと思える結果になる。
だからきっと、今の境遇は恵まれているのだろう。
慣れてしまうと、それがどれだけありがたいことかを忘れてしまう。
変にこじらせると「自分はなんて不幸なのか」と嘆いてしまう。
こうやって時々リマインドする。
一人称単数の「私」、実在する「私」の幸運さを再確認するために。