単なる機能としての自我

自我は厄介だ。常に私の邪魔をする。10代の頃なんてもう酷かった、思い出しただけでベランダから飛び降りたくなる。50歳になった今だって、暴走気味の自我が恥ずかしいことをやらかしてしまうことはある。その頻度と、恥ずかし度?は若い頃よりは減ったけれど。

誰だって自分が大事だし、「これが自分だ」という確固たるアイデンティティを持っているだろう。ところが、過去の日記を読み返すとその確固たる自分というのがかなり怪しいことがわかる。意見が結構変わっているのだ。記録を残していないと変化に気づけない、結果として「自分は絶対に変わらない」という妄想?に固執する。

自分なんて、自我なんて本当は存在しないのでは?という考え方がある。古くは初期仏教がそんな思想だったし、最新の脳科学でも同じような説を唱えている学者がいるようだ。両者を統合しようという面白い取り組みもある。また、小説家の平野啓一郎が提唱する「分人」という考え方もそれの変種だと思われる。

人間の自我は、一個の統一性ある有機体として人を活動可能にする機能でしかないと考えて、それを実体視することがなければ、意識がそれに固着して、心が狭い私感情に染められ、それに支配されることはなくなるでしょう。
「あなたのワタシはウソである」 大野龍一著 56P より

自我は、生物として人間が生きるための機能、方便でしかない。状況によって変わるし、後生大事に護べきものでもない。ならばそれにこだわるのもアホらしい・・・と単純にそう思えればいいのだけれど、まだまだその境地には至れていない気がする。死ぬまでに「自我」には大した価値がないということを心の底から理解し、そしてそれを捨てることができるようになりたいものだ。

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